出典:復興デザイン研究会ニュースレター第 4 号(2007.7.13 発行)復興デザイン研究   (Revitalizatin Design Research)特集<サンタクルーズ物語復興調査:5 >

「物語復興」調査ものがたり
第1日。まず市庁舎を訪問。市の概要や行政組織について聞く。年間15万人の観光客が訪れる観光地。特にサーファーに有名。カリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)があり、5万6千人の人口のうち2万人が学生。「市民の平均年齢は31.5歳」、「一年のうち300日は晴れです」という説明に、山村豪雪・高齢過疎の中越組は苦笑い。 その後、公共事業課担当者や地震発生当時の元市長、商店街代表、再開発のコンサルタント代表、商工会議所代表らに次々と面会し、被災状況や活動内容を聞く。 サンタクルーズ(SCと表記する)の議会や委員会は、市民に対して常に開かれている。一行は一つの委員会を見学し市議会にも招待された。日本からの復興調査団が、市長や評議員の前で紹介される様子は、地元のケーブルテレビでも生中継された。 ヒアリングによって得られた地震発生から復興に至るまでの経緯をまとめる。

内容

  1. 地震発生 1989年10月17日(火)17時6分、地震発生。狙ったように中心街地(パシフィック通り沿いの商店街、以降ダウンタウンと書く)に沿って壊滅的被害。ちょうどメジャーリーグのワールドシリーズ中継を観戦中の人が多く、市街地に人通りが少なかった。それが幸いし、人的被害は死者3名と比較的少なかった。 公共事業課等による被害調査が始まる。当時のブッシュ大統領も現地視察に入る。間もなく感謝祭(11月最終週)シーズンだった。12月のクリスマスシーズンまでの1ヶ月の売り上げが年間売上げの25%を占める。いつ商売が再開できるか。まさに死活問題だった。すぐに商売を始めたいという商店主達は、市役所に押しかけ、怒鳴り声をあげて立ち入り禁止解除を要求。市議会は、早急な再建プランの提示を確約する。
  2. 仮設店舗 一刻も早い営業再開を望む市民のボランティアグループが主導して、駐車場跡地に7棟のパビリオン(大型テント)を設営し、仮設店舗営業を開始する。管理のために、商工会、文化協会、環境団体からなるNPO「フェニックスパートナーシップ」を立ち上げる。運営には、10万ドル(約1200万円)の寄付金が充てられた。 ダウンタウンを放棄し、郊外に大型商業施設を立てることもできた。だが、思い出深いダウンタウンをあきらめきれず、再生を決意する。「Buy Santa Cruz」キャンペーンが始まり、周辺地域の住民もサンタクルーズ復興のために買い物に訪れる。
  3. ヴィジョン・サンタクルーズ 年が明けて90年1月、市は、復興計画を策定するべく民間18人、行政関係18人を選出した。会合が始まるが、それぞれの利害・思惑がぶつかり合い、一向に前に進まない。36人全員が対等であることを確認し、テーブルを円卓に配置するまでに、数回の議論を経なければならなかったし、復興計画の名前を付けるまでに5回もの議論を要した。Vision SC、Restore SC(復旧)、Partnership SC(協働)の候補から選ばれたのはVision SCだった。
  4. 50年後のビジョンを 話し合いはいつももめていた。だが、”First Principle (原則)”が取りまとめられた90年春頃から36人にまとまりが出始める。「今のことだけでなく、子供達の住む50年後を考えよう」という提案が、メンバーに浸透した。利害を超えて皆が前を向いた。300回を超えるワークショップ・会議が開かれた。市民も復興計画に参加した。「水を引いてベニスのように」、「朝から晩まで安心して楽しめるダウンタウンに」。皆で描いた未来図を壁一面に貼りだし、お互いに評価しあった。専門家の講義も聞いた。「4街区以内に駐車場を」、「広すぎる広場や歩道は逆効果」など、理論が構想に吸収されていった
  5. シビックリビングルーム 文書を取りまとめていたチャールズは、「Civic Living Room(ダウンタウンを市民の居間に)」をキーコンセプトとして提案し、委員会はこれを承認した。これで復興の方向性は決まった。 91年9月市街地復興プランが完成。巻末の付録に皆の想いをギュッと凝縮した物語が散文調でまとめられた。
  6. 復興 95年、撤退したデパート跡地に映画館が完成し、ダウンタウンの核ができた。夜も通りには賑わいがある。18時間過ごせる市民の居間が完成した。

◆木村浩和((社)北陸建設弘済会北陸地域づくり研究所) http://snow.nagaokaut.ac.jp/fukkou_design/RDR_News04.pdf 出典:復興デザイン研究会ニュースレター第 4 号(2007.7.13 発行)復興デザイン研究 R e v i t a l i z a t i o n D e s i g n R e s e a r c h特集<サンタクルーズ物語復興調査:5 > 「復興物語」は確かにあった ■物語はなかった 「物語復興」という、バラ色の未来に導く「魔法」がアメリカに存在すると、勝手に妄想していた。「物語?そんなもの無かったよ」。最初に出会った何人かはそう答えた。皆の口から出たのは、「大変だった」、「もともと政治的対立があって…」、「皆、机を叩いて怒鳴りあっていた…」「とにかく早く店を開かないと…」、「できれば、ダウンタウンの店を引き払って郊外に行きたかった」。僕らはいったい何をしにアメリカまでやって来たのだろう ■パシフィック通り 「ここがそのパシフィック通りです」という通りを歩き昼食をとった。明るくて、賑やかな歩道にベンチが並び、カフェに行列が出来ている。 気の利いた小さな店が軒を並べ高層の建物などない。市役所は平屋で緑にあふれた庭がある。歩ける範囲に役所も図書館も教会も映画館もカフェも本屋もスポーツショップもブティックもある。寿司屋もインドカレー屋だってある。震災の傷跡などどこにも見あたらない。実に居心地が良い通りなのだ。震災から十八年。復興がうまくいったということは、人の言葉など聞かずとも、一目見ればすぐわかる。でも、「物語」のような復興計画を作り、それに沿ってまちづくりを進めてきたとは誰も言わない。 なるほど、彼らの描いたダウンタウンの未来像は、それほど自然な当たり前な光景だったに違いない。とはいえ個人個人の当り前(わがまま)を全部聞いていたら、日本の出来の悪い「マチナカ」のように、チグハグで統一感もなく、居心地の悪い空間になっていたに違いない。どうやって想いを一つにしたのか。 ■円卓、そしてビジョン 「テーブルを丸く配置したんだ」と何人かから聞いた。何故、円卓がそれほど思い出深いのか。利害の対立、根強い不信、議論が前進しない焦燥感。36人の誰が上でも下でもない。それが円卓だった。怒鳴りあい机を叩きあう36人のベクトルを揃えたのは「子供達の住む50年後の未来を考えよう」という提案だった。だからビジョンサンタクルーズの名前が選ばれた。ビジョンというのは「目に見える素晴らしい光景」のこと。300回を越えるWSや小会議。誰もが復興計画に関わる機会を与えられ、そして実際に相当数の市民が関与したとのこと。ホールの壁一面に皆のアイデアを掲示し、そこですぐに色帯で評価しあった。以前から、市の総合計画策定などに携わっていたコンサルタントが、大学の先生と相談しながらコンセプトを提案する。何度か拒絶された後、「Civic Living Room」が生まれ了承される。そこから全てが始まった。 ■まちづくり 市民にとって、朝から晩まで居心地の良い空間にするにはどうしたらよいか。明るい通りにしたい。家具屋さんが町並みのモデルを無償で作ってくれた。ライトを太陽に見立てて、日当たりの良い歩道にする建物配置を考えた。日当たりの良い側の歩道を少し広めにした。街路樹は、歩道を暗くしないように生い茂りすぎない樹木を選んだ。肩が触れ合うくらいの「賑わい感」を感じられる幅とした。人の動きが見えやすいように、商店はガラス張りにしたし、映画館も1階はガラス張りにして、2階から上を壁で覆った。全ては「居心地のいい居間」を作るためだった。 ■復興へのステージ 以上のことを、自分なりに次の6項目で整理してみた。(1) つよい想い (2) 対等な関係 (3) 未来の意識 (4) 自由な発想 (5) 明快な理念 (6) プロの支援 一日も早く店を再開したいという強い焦燥感・危機感というつよい想いが有志によるパビリオン設営に繋がり、そこで自然発生的に生まれた市民同士の対話が、円卓へ、そして過剰依存でない対等な関係へとカタチを変えた。ぶつかり合う利害を押さえるには、共通の未来への意識を持つしかなかった。ワークショップは何を言っても良い自由な発想の場となり、吐き出された膨大な提案・情報から、贅肉をそぎ落としていって最後に残った本質が、シビックリビングルームという明快な理念だった。それが出てしまえば、あとはコンサルタントや大学教授のプロの支援が意味を持ち始める。 理念が生まれたのは、震災から半年後。物語のような記述を含む復旧計画が議会で承認されたのが1年半後で、完成は2年後。どうやら、「物語復興」という完成された手法は存在しなかったようだ。だが、結果として市民誰もが理解できる「復興物語」が生まれたことは間違いない。なるほど。物語復興というのは、物語を生み出す復興の手法ではなく、自然と物語が生まれるプロセスを指すのだろう。 単純にサンタクルーズを復興の成功事例と見ることには賛成しない。それはあくまで結果だからだ。何よりも大切なことは、成功の物語を共有できていたことだと思う。向かうべきベクトルが揃ったことこそが意義深い。 「ビジョンサンタクルーズのアイデアは、部屋で友人とワインを飲みながら夢を語りあっていて出た」。世界中どこでも復興の現場にはアルコールが欠かせないらしい。